上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 ネットでもリアルでもお世話になっている友人と2人でカラオケに行きました。ものすごくリフレッシュされました。(^^)/
 二人で3時間歌いっぱなし。片方が歌い、その間に片方が次の曲を捜しながら飲んだり食べたり。しかもお互いに、曲の趣味はあまり共通していないもので、「その曲知ってる!」というのは、なつかしの曲くらい。年代が一緒なので、なつかしの曲だけは同じなんですよね。(笑)
 彼女はバンド系の曲が好きなので、X Japanやラルクやガクト等、私は思いっきりアイドル系なので、KinkiKidsやNEWS等。意外な共通点としては、女性の曲で歌えるのはナツメロに限られる二人組みでした。
 気心の知れた二人なのをいいことに、今まで歌ったことがないような初めての曲に挑戦しては、思ったほど覚えていなくて「こんなはずじゃ。。。毎日聞いているのにぃ」とがっくりしたり、逆に意外といけて、レパートリーリスト入りしたりと発見もいろいろありました。本当に楽しい3時間でした。
 今回は、私がちょっとふさぎギミなのを心配して友人が誘ってくれたのですが、本当にこういう友人は大切ですね。ほんとうにありがとう。おかげで思いっきり元気になりました。(^^)/
スポンサーサイト
 昨日は父の話しを書きましたので本日は母の話しを、というか私自身の話しをします。私がまだ赤ちゃんだった頃、もちろん記憶はまったくありませんが、今ではとっくに廃止になってしまった「赤ちゃんコンクール」というのがありました。当時はどこの自治体でも結構力をいれてやっていた企画で、かなり組織的にコンクールが行われていたようです。
 私は生まれる前から「双子に違いない」と言われるほどでっかく育った赤ちゃんだったそうで、うまれた時には3700gもありました。兄が2800グラムで生まれてきたことを考えると、かなり大きな赤ちゃんだったことになります。2人目の子供ということで、母の母乳も沢山出るようになっていて、うまれた後もすくすくと育ちました。
 うまれた時から髪は黒々とフサフサで、色白で、しかもふくふくと太った(ブクブクではありません)赤ちゃんだったので、小児科の先生からも太鼓判を押され、私の住む町(同級生は150人程度?)で開催された赤ちゃんコンクールでは見事優勝を果たし、町代表として地区大会にコマを勧めました。そしてそこでも優勝を果たし、県大会にまで勝ち進んで、結局、県で3位になったそうです。
 これは、私自身というよりも、母がいかに手をかけて私を育てていたかを物語るものです。このコンクールは大きければよいというものではなく、大きさもしっかり大きくて、でも肥満ではなく、よく運動をさせて体がしっかりしていることが大切で、更には、皮膚にかぶれや虫刺されなどの跡がないことや、知育的にもきちんと成長していることも重要なポイントだったようです。
 今になって思えば、私ってあかちゃんのころが一番優秀だったんだなと思うのですが、それは自分の努力ではなく、母の努力で勝ち取ったもので、きっと一番喜んだのも母自身なんだろうと思います。そして、そんな風に素直にすくすく育って、母に福岡県3位の栄光をプレゼントできた私は、あかちゃんにして親孝行者だったんだなと思います。それにしても、以後それ以上の親孝行が出来ていないというのは、ちょっと情けない限りです。
 母が喜ぶ親孝行というのは、なかなか難しくて、何かをプレゼントするとか、田舎に遊びに行って母の話し相手になるというのも親孝行の一つではあるのですが、一番母が喜ぶ親孝行は、私自身が母にとって自慢できる娘であることなのです。これは、私があかちゃんの時から変わっていません。なかなかハードルが高くて、年と重ねれば重ねるほど母の理想の娘からは離れて行く気がします。とほほです。でも、出来るだけ志を高くもって、頑張っていかねばと改めて思ったこの週末でした。
 私の両親は、ある意味、とても子煩悩な両親でした。それに関する逸話はいくつもありますが、昨日母と話をしていて、新たに「おお!親の愛は偉大だったのね。(父親編)」と思うことがありました。
 それは兄が生まれた時のこと、兄は両親にとってははじめての子供で、両親にとっては待望の長男誕生でした。が、うまれて間もなく問題が発生しました。それは、母の母乳が十分ではなく不足してしまったことです。また母の母乳の状態も悪化して、無理に飲ませることもできない状態になってしまいました。その時、父は「仕方がない。ミルクにしろ」と言ってミルクを買ってきたそうです。
 そうしてミルクでの育児が始まったわけですが、ある月の給料日の夜、仕事の帰りに飲みに行った父が、給料袋を無くしてしまうという事件が勃発。途方にくれる両親でしたが、それでも父は、もらった給料でその日の昼休みのうちに速攻で兄のミルクだけは買っていたので、その月も兄のミルクにだけは困らなかったという話しでした。
 実はこの話、私はこれまでにも何度か、母から聞いたことがありましたが、母乳が出なければミルクにするのは当然で、更には「給料袋ごと無くしたのに、ミルクだけは買っててよかったって、あまりぴんとこない話よね。笑い話なの?」と思って聞いていたのです。
 しかし、昨日母と改めて話しをしていて、驚くべき事実を耳にしました。それは、兄のために毎月買っていたそのミルクの値段は、父の給料の1/3の値段だったというのです。今の感覚でいうとミルク代なんて、たかがしれていて、大騒ぎすることでもないと思うのですが、当時は母乳が当然で、ミルクは超高級品。母の母乳が出ないのでミルクに切りかえようと言った父の決意は、並大抵の決意ではなかったわけです。そして、給料を無くしてしまうという大失敗をした父ですが、愛する息子のために、いの一番にミルクを買っておいた父の行動は大金星に値するというわけでした。
 父は、子供を猫可愛がりにするタイプではなかったけれども、いつもいつも子供たちに必要なことを考えて大切に育ててくれたんだなと、改めて思いました。父はもう何年も前に他界してしまいましたが、今でも私がピンチの時は、父が励ましてくれている気がします。
 父の遺骨を納めた納骨堂が、今回の地震でかなりの被害をうけたというので、遺骨をお寺の納骨堂に移すことになり、行ってまいりました。まずは元の納骨堂から納めた時のまま白い布で包まれた桐箱を取りだし、お坊様にお経をあげていただき、それをお寺に運んで、お寺の本堂で、またお経をあげていただき、新しい納骨堂に納めて、更にお経をあげていただきまして、無事、移転を完了しました。
 どうやら、実際のところ、地震で元の納骨堂が被害にあったのは、単なるきっかけにすぎず、母が遺骨の移転を決めた本当の理由は、元の納骨堂の立地にあったようです。1つは父の田舎にあり、その地区に代々住む人達のための納骨堂で、うちのように他の地域に住みながら、そこに遺骨を納めているケースはほとんどないということ、更に、場所がとても交通の便が悪い山中にあり、タクシー以外では行けないということがあったようです。
 私自身は、私のもつ信仰心や、父への供養の思いと、お寺の様々なシステムがどうしても合い入れないために、お寺の各種行事とは極力係り無くないという気持ちがあります。また年金生活をする母が、お寺の行事がある度に、父への供養になるからと、自分の生活費を削って分不相応の高額なお布施をしたりするのを見ると、なんだか遣りきれない思いがします。そんなことを父は望んではいないだろうに、と思うのです。 それでも、大人のすることなのだし、母がそれで気が済むのならば、私の考えを押し付けるのもいかがなものかと思い、なるべく口を出さないように心がけてはいました。しかし、一時期、母の生活のほとんどがお寺中心になってしまい、たまに帰省した私との会話もほとんどが、「この前、お寺でねぇ。。」とか、「今度お寺でねぇ。。。」という話しになってしまったことがあって、とうとう堪忍袋の緒が切れたことがあります。その時に、私はお寺のシステムそのものには多いに疑問を持っていること、そのお寺に振りまわされている母をみると、怒りが倍増すること(母の話しもお寺に対する不平や愚痴が大半ですし)、それでも、母にとって、それが必要なら辞めろとは言わないから、代わりにそういう話題は私の耳には入れて欲しくないことを母に言いました。
 それもあって、今回納骨堂を移す話しは、私が大反対するだろうと思ってたようで、なかなか切り出せなかったようです。私自身は、亡くなった父はいつも私の心の中にあると思っているので、遺骨がどこにあるかというのはあまり問題ではないのですが、物理的に遺骨がある以上、ほっておざなりにしておくわけには行かないという気持ちはありますので、母が一番好ましいと思うとことに納めておけばよいと素直に思った次第です。
 人の信仰心の体現は千差万別だと思うのです。私がお寺が好きではないのは、そこが、宗教の場というよりも、宗教ビジネスの場的になっているように感じるからだと思います。多分私は一生既存の宗教に帰依することはないでしょう。
2005.04.01 友人の帰還
少子化の話題は一時中断して、今日は友人の帰還の話。

11年ほど前の話、大学時代からの親友が関東から関西に転勤になりました。新しい事業所が関西にできて、九州出身だった友人が転勤の対象になったのです。会社としては、関東より関西のほうが地元九州に近いので、本人も都合がいいだろうという配慮だったのでしょうが、私の友人は、この11年もの長い間、関東に戻りたいと切実に願い続けていました。
九州でも都会、しかも中心街で育った彼女は、九州人でありながら都会っ子。更に、小学校から地元の有力者の子弟が集まる有名なMission系の学校に通っていたこともあって、彼女の感覚では、関西での居住地が「ほんとうに何もない田舎」で、我慢できないと言い続けていたのでした。
もともと九州も田舎、周りは田園地帯でな~~~~~んにもないところで育った私には、田舎だから我慢できないという感覚がいまいち理解できなかったのですけれども、彼女が関東へ戻りたいと切実に思い続けていたのはよく知っていました。
そしてとうとう彼女が関東への帰還します。そこに至る道のりは、聞くも涙、語るも涙の紆余曲折があり、とうとうこの日が来たのだと感慨深いものがあります。
最終的に転勤の内定が取れたのは昨年の11月。彼女の娘はちょうど中学受験の年齢で、それから怒濤の関東展開準備が始まりました。その過程で、私はようやく、何故彼女がそれほどまでその地を離れたがっていたのかを理解しました。11年間もの間、ずっといろいろな情報交換をし続けていながら、彼女の本当の気持ちを理解していなかったことを、本当に申し訳なく思っています。

始まりは11年ほど前、彼女はまだ幼児の長女の手を引き身重の体で関西に転勤しました。そして、その地で2番目の子供が生まれました。そしてまだ関西での生活にもなれていない時期に、あの日がやってきたのです。
―1995年1月17日ー阪神淡路大震災―
幼児と乳飲み子を抱えて、見知らぬ土地で突然遭遇した大地震。彼女も私と同じく福岡生まれの福岡育ちなので、それまで大きな地震を経験したことがありませんでした。どんなに恐ろしく、不安に思ったことでしょう。幸い建物の崩壊はありませんでしたが、部屋の中は足の踏み場もない惨状で、命が助かったのが奇跡という状態だったそうです。電気・ガス・水道等のライフラインが止まり、しばらくは不自由な生活を強いられていました。
彼女の夫は非常に活動的な方で、速攻でボランティア活動を始め、昼間は会社、夜はボランティアととても忙しく飛び回っていました。そう、自分の家族を省みることなく。。。。。彼女は幼子を2人抱えて、たった一人で震災からの復興作業をするしかなかったわけです。
その震災の後、被災地域は暗い空気を払拭することができず、人心が荒れ、神戸須磨児童連続殺傷事件や、大教大付属池田小事件などなど、日本中を驚かせる暗い事件が起きました。彼女にとってその地での生活は、阪神淡路大震災に始まる暗く恐ろしい記憶の積み重ねだったのです。

彼女がその土地を離れたいと願ったのは、そこが田舎だったからではなく、彼女にとって辛く苦しく重く暗い思いをした土地だったからなのです。そのことに気が付き、私は始めて本当の彼女の気持ちを理解できたように思います。
だから今日は、心からこの言葉を贈ります。「関東への帰還、本当におめでとう!」
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。